日記

カテゴリー(スマホ版は画面下部)で雑記と小説を分けています。

それって「幸せ」なん?

私は0歳児がとても好きだ。

あくまで「たまに知人の家でちょっと抱っことかさせてもらう」から良いのであり、24時間365日面倒を見るのは出来ないが…。

 

マスクやら何やらが以前より緩和されたとはいえ赤子は聖域。

身内の赤ちゃんを「チョット抱ッコシテモイイ…?」とお願いして拝借。

ふにゃふにゃ、ほかほか、わりとずっしり、なんか良い匂い、アッよだれ。とぅとい。

素晴らしい素晴らしいって連呼しながら赤子を抱っこしていたら憎悪の視線。

そう、我らが親戚の娘ちゃん(勝気な性格verの子)である。

「るにちゃん、鳥ばっかり(怒)」に続き「るにちゃん、赤ちゃんばっかり(怒)」という新バリエーションが追加されてしまった。

 

子供は可愛い存在だけど、特に0歳児からしか取れない栄養がある。

そういえばオキシトシンとかいうホルモンがなかったっけ、幸せホルモンとか愛情ホルモンとか言う…と軽い気持ちでググってみた。

えーと、対象物と自分の絆が深まったことに喜びを感じるってことは、見方を変えれば排他的ってことでもある、ようだ。

まぁ野生環境で母が赤子を守ろうとした場合、自分たち以外は敵な訳で、警戒しなきゃいけない。

とても合理的だ。

ホルモンの存在意義は分かる。

引っかかるのはそんなオキシトシンに「幸せホルモン」とか「愛情ホルモン」とかいう俗称が付いていることだ。

前に「母鳥は雛が巣立っても(たぶん)虚無にも鬱にもならないのに、人間のそういった症状に『空の巣症候群』なんて名称を付けるのは鳥に失礼じゃね?」という理由でモヤったのと同じ感覚に陥った。

幸せ、愛情の名を冠したホルモンだけど、性質は排他的。なかなかシュール。

守れる範囲のものだけを確実に守って、小さな愛の世界に生きるのも大事だけどさ。

それは弱い人間の現実的な処世術であって、真に理想的な愛情や幸せではないよな…と思ったりする。

結局そこに落ち着くしかないとしても、あくまで妥協して削ぎ落した結果というか。

自分の手に負えるギリギリの大きさの世界がそれなのであって、自分から積極的に排他的な方向に走るのは違う気がするっていうか。

辿りつけなくていいけど、高邁な理想としての「愛と幸福」の概念はあって欲しい。

だから推しユニが「僕らだけが世界」とか言いだすと「待てや」って言いたくなるんだろう、多分。まずは世界一周してから考えようぜ。

つかあんスタくんはまさにこういう排他的で小さな幸せの世界を善、ゴール、終着点、として書かれてる感じで、パーソナルスペースめっちゃ広い宗&みかが好きなヴァPとしては、二人がゼロ距離になればなるほど良い、みたいな方向で出されると戸惑う…カップリングとして考えるにしても、何の寂しさもなく遠距離恋愛してて、たまに会うたびに前と全然違う雰囲気になっててビックリするけどすぐに空白の時間なんてなかったみたいに打ち解けて、でも話を聞いてみたら思いもしない経験をいっぱいしてて、ああ別の人間なんだなぁ…みたいなのがいい…特に影片が斎宮さんに対してドライで、外界に対しては乾いたスポンジのように好奇心旺盛なのが好き…語彙力…。

そして何もかもあれもこれも幸せにすることで自分も幸せになろうとか調子のいいことを考える英智さんが、ほんの数人を幸せにする能力があるかどうかも怪しいという自己認識の斎宮さんに荷袋みたいに担がれてお持ち帰りされたらいいのに…と思う。

 

前回書いた通り「理屈上、空の巣症候群は存在しようがない」に続き「愛情(幸せ)ホルモン・オキシトシンのことは、第三者視点から排他的妥協ホルモン・オキシトシンと呼ぶ方が全貌をカバー出来て良いのでは」という自己満足な結論に落ち着いた。

 

世の中これだけ安易に母性を信仰してくれるんだから、母性の皮を被った悪がはびこりやすいのも納得。親の愛というチートな名目の隠れ蓑の下で好き放題する詐欺師だよ。

 

とりあえず、その後親戚の娘ちゃんとイチャイチャして過ごした。

寂しさの記憶など持たず大人になれ。