日記

カテゴリー(スマホ版は画面下部)で雑記と小説を分けています。

白くない白文鳥。

結構前、私の監督不行き届きによって親戚のお嬢が文鳥の雛を…ということがあった。

別室から出てきたお嬢に「なんか鳥うごかなくなったよー」って緊張を隠した声で報告された時のヒヤリ感。(ヤバイことしたって分かってるからこそ軽く言う感じのアレ)

当時は言葉には出来ない色々な感情で心がハチャメチャだったのだが、周囲に言われた「でも命の勉強になって良かったね」が凄いモヤって、イヤそりゃそうなんだけど…ってなってたら友達が「ウチの小鳥は子供の教材じゃねぇよってなるよね」って正確に言葉にしてくれて納得したのを覚えてる。

そうですあの子は私が末永く可愛がろうと思っていた小鳥であって、学びのために最初から死なす予定の命の教材ではなかった…。

 

雛であることを差し引いても全力で人間大好きな子だった。

埋葬後、詳しい人に写真を見せた時に「あ、女の子だねー」と言われて、あまりにもチュンチュン騒がしいので暫定チュン太郎と呼んでいたことを申し訳なく思った。

外見で性別が判別できる時期ではなかったが文鳥マニアが多分ほぼ確実と言うからにはメスだったんだろう…もうちょっと可愛い名前をつけてやればよかった。

 

温かいところで休ませていたのに、最後の最後にグッと顔を上げて飛んで私の手の中に納まった途端、脱力して死んでしまった。2秒にも満たなかった。

何度か私の手に乗りたがって、その都度冷えたら良くないからとヒーターのところに戻していた。もう無理なのは明らかだったんだから保温にこだわらず抱っこしてあげていればよかった。手の中でクタッと死んだ瞬間、100%間違った対応をしてしまったと分かって後悔した。歴代看取りで一番悲しかった。冷えは良くないって知識だけが先行して、こんな冷え性のつめたい手に乗りがる鳥の気持ちを無視して。最後、執念で羽ばたいて手に乗ってくれたけど、それで力を使い果たしてしまった。奇跡に縋らず看取りに切り替えていればもっと抱っこしていられたのに。

 

チュンとの別れはずっとしんどい記憶だったが、先日ほぼ同じビジュアルの文鳥(おそらく売れ残り)を見つけてお迎えしてしまった。前置き長ぇ。

 

お迎えして一日も経っていないのに手に乗せても逃げず、背中を向けっぱなし。

(※鳥は臆病なので安心できる相手にしか背中を見せない)

 

弥富系の白文鳥は、雛の時は灰色が混じっている。(台湾系は生まれた時から真っ白らしいが実際見たことは無い)

成長につれて全身が真っ白な羽根に生え変わっていく。

お店の人は「雛の時点でここまでグレーが多いと、成長しても真っ白にはならないかも」と申し訳なさそうだったが、個人的にはむしろ大歓迎。

チュン太郎もやはり「成鳥になっても真っ白は無理!」と太鼓判を押された子だった。

好みにもよるけれど、やはり真っ白になる子に需要があるんだろう。

お迎えしたこの子は他の白みが強い白文鳥よりお値段控えめ、挿し餌を卒業してもお店にいる先輩株だった。

 

カワセミみたい。

 

 

あくび…?

 

 

寝落ち。

 

 

あ、起き…

 

 

寝た。

 

 

ハイちょっと全身撮らせてねー。

お迎えショット📷✨

 

挿し餌卒業済みと聞いていたのに、あんまり餌をつつかないし、ためしに挿し餌を用意してスプーンであげたら狂ったように食いついてきた。この全力でガガガガッと食いつく感じも死んだ子に似てて懐かしい。生きてメシ食ってるだけで泣ける。

顔立ちも似ているから女の子かな。

文鳥の女の子は目が丸い形。アイリングの色は薄め。頭のてっぺんは丸みがあり、くちばしは細長い。

ビジュアルによる判別がほぼ不可能なコザクラインコに比べるとかなり見分けやすいけど、所詮まだ幼鳥なので、そのうち喉をコロコロ鳴らしたりピュルクルクルッピューコポポピ-ヨッ♪と歌い始める(※オスの特性)かもしれない。

 

※その後、お嬢は激怒した親に叱られまくって号泣。今は鳥に対する力加減が分かったようで、たまにコザクラと遊んでくれる。

全部地獄じゃねーか。

私の周りは母親と仲の良い子が多くて長年羨ましかったが「お母さんがお婆ちゃん(姑)にいじめられるから傍にいてあげないと」「私が支えてあげなきゃ」からの「やっぱり結婚したかった」という声が増えて、どうあがいても母と娘なんて地獄じゃんと虚無顔。

結局どこかのタイミングで罪悪感と戦いながら切り捨てないと自分の人生が詰む…でもなまじ仲がいいと大変なのだろうな…それぞれのしんどさがある…。

母娘の丁度良い距離感という神ストライクゾーン、あまりにも狭すぎて実在するのか疑うレベル。さてはツチノコだな???????????????

こないだ知らん婆ちゃんが「姑より母親看取る方が大変だったわ~~~実の娘だから全然遠慮しなくって~~~他人の方がよっぽどラクよ~~~」って語ってて、何十歳も年上のばーちゃんだったけどめっちゃ分かる…ってなった。母×息子チャンの組み合わせでは起きない何かが起きるのだ。

 

親戚のお嬢たちは相変わらず懐いてくる。それぞれ懐き方に個性はあるが。

るにおばちゃんはねぇ噛んで噛んで噛み終えた味のしなくなったガムになって捨てられることに不満を持ちたくはない。むしろそれが夢。全部未来に持ってけ若者。

 

↓ハイ『ちみも』ですよ~名作なので観て下さい~。

www.nicovideo.jp

お前のようなババアがいるか。

クーポン消費にレトロ銭湯に行ったら地元のおばあちゃんらしき方ばかりだった。

皆さん顔なじみなんだろう。世間話に花が咲く。

 

 「そういえば〇〇さん、病気してから体が前ほど動かないって嘆いててねぇ」

 「80歳だったかしら」

私(おばあちゃん…😢)

 「退院後、ベンチプレスのスコアが落ちてたらしいわ」

私(!?!?!?!?!?😮)

 「間が空くとそんなものよ。若いから大丈夫」

 

やはりこの町を生き抜くのに最も必要なのはパワー。力こそパワーなのだ。

 

↓路上にお年寄りが倒れている町の話&積極的に助けない地域性の話。

(※内容に(残念ながら)誇張はないけど、あくまで私の身辺の話です😩)

runiruniru.hatenablog.com

runiruniru.hatenablog.com

 

遊びに来た友人に『世紀末都市』と名付けられたこの町。

私も転入して長くなるが、だんだん掴めてきた。

ざっくり言うと脳筋至上主義でデリカシーが死んでる。

それに対して好き嫌いの感情はもう無い。もう慣れた。

町に適応できる筋肉があるかないか、それだけの問題なのだ😞

女児と観る『よりもい』2

女児のことはさておいて、私も『よりもい』で印象に残ったシーンはあったのでメモ。

 

①めぐっちゃん北極に行く。

キマリが帰国報告すると同時に、北極なら俺の隣で寝てるよ宣言。良かった。これでもうめぐっちゃんはキマリにイライラしなくて済むし、帰ってきたらちゃんと友達できるね。いにしえの根性論は嫌いだけど、この手のイライラには努力不足が含まれているのは否めない。でも、努力をしたいのに、力を向ける先すら見つからなかったらもどかしいまんまだもんな。北極があって本当に良かった。別に嫌な子だとは思わないよめぐっちゃん。正しく自己嫌悪してるし。成長過程成長過程。

 

②ああいう奴らはモヤモヤを抱えないと知らないしらせちゃん。

日向を学校で孤立させておいて、日向が南極に行くとなると、自慢したいからって友達面して気軽に謝罪メールしてきて許しの言葉を聞こうとする陸上部の奴ら~。しらせちゃんが「人を傷つけたんだからモヤモヤ抱えて生き続けるのが罰だ!」ってカメラに向かって啖呵切るの、多分いいシーンなんだろうけど。こういう奴らは『絶対に自分は悪くない』を前提に動いているし、自分たちは悪くないってことにするためなら事実もウサワも何でも捻じ曲げちゃうから、多分しらせちゃんが言うような心の動きにはならないんだよ。でもしらせちゃんは真っ直ぐな子だから、そんな人間がいるなんて咄嗟に思いもしないだろう。だからあんなクズには効かないヘボ攻撃を全力で繰り出してしまう。しらせちゃんの言葉は、一瞬だけ陸上部の子たちをイラつかせて、でもすぐに捻じ曲げられて捨てられる。真っ直ぐな人間の言葉はクズにダメージを与えることは出来ない。でも同じく真っ直ぐないい子である日向には届いただろう。だから私としては全然スッキリしないしカタルシスも得られなかったけど、それだけでいいのよね。あれはしらせちゃんが日向を救った言葉と態度だった。何よりしらせちゃん渾身の言葉が陸上部の子たちにダメージを与えない=しらせちゃんはクズと同じ土俵に立つことすら出来ないってことだ。実は素晴らしいことなのだ。

 

③友人誓約書。

小学生の時、やたらお揃いのものを持ちたがる子がいた。それと似ているのかな。離れていても繋がっているって証拠が欲しい。日本は若者・青春を重要視するけど『クラス』という概念が死んでからの方が明らかに人生は面白い。うちの父上とか典型的な昔は良かった系で、そりゃ主体性なく受け身で生きてりゃ責任が伴う大人なるほど人生楽しくなくなって当然だろ…とは言えない。打たれ弱い人を責めるのはどうも。ただ、父のアレは何かいい感じにノスタルジー装飾してるけど単に人生設計のミスってだけの話だから、もし私が父の立場だったら恥ずかしくてそんなこと年下相手に言えない。常に今が一番幸せであるよう努めるのは大人の義務なのだ。

そういや銀河鉄道999で観た酒場の弱々しいオッサンたちと、メーテル母はうちの両親にそっくりだ。ウチの親はよく例にあげられがちなのの男女逆verなんよな。モラハラDV妻と、怯えて言いなりになる夫。ハラスメント被害は女だと同情されるのに男だと情けないって軽んじられるのは理不尽ではある。君臨したい女はいるし、弱虫な男もいる。人間だもの。

 

④母のPCで4桁の未読メールを受信するしらせちゃん。

母が行方不明になって以降も欠かさず送り続けていたメールは一通も読まれていなかった。何なら受信すら出来ていなかった。遺体が見つからなくても強烈な『死にました』の洗礼。向き合って泣いて叫んで受け入れた。やっと始められるね。悲しいけど良かったねっていう不思議な感覚になった。ドアの向こうで声を殺して泣いてる友達たちがまた良い。

 

実はほんのちょっとだけ、野生に適応してサバイバル生活してるしらせママと氷上で再会出来ないかなって…「よぉ元気だったか娘!焼きペンギンの手羽先食うか!?」的なママの登場を0.5%ほどは期待してたけど無かったね。そういうテーマじゃないからね。

女児と観る『よりもい』

三連休だの学級閉鎖だのうるせぇ!!!と叫びたいが、女児に言うのも可哀想なので、休日のたびにやってくる女児たちを受け入れる優しいわたくし。自分で言う。だって私、子供好きではないし…正直ウンザリはするんだ。せめて自分で自分を褒めないと。

 

子供と遊ぶ労働力を外注するためにu-nextもアマプラも完備しておる。

今回選ばれたのは『宇宙よりも遠い場所』でした。

yorimoi.com

 

女子高生が南極に行くやつ、最終回を観た7歳児の反応が意外だったので記しておく。

彼女曰く「え?結局しらせちゃんのお母さん見つからなかったの?なのに何でハッピーエンドなの?😨」と。

彼女はうちの親戚お嬢たち(※多い)の中でもかなり頭のいい子なのだが、やはり7年しか生きていない幼子なんだなぁと実感した。

母親が南極で行方不明になった=その娘が南極に行くのは捜索目的である

という揺るぎない大前提が、彼女の中にあったのですね。

母を探して南極まで行ったのに、母には会えず、でも満足そうに日本に戻るしらせちゃん…というのが全く理解出来ない様子だった。ハッピーエンドの空気感についていけずに混乱しとる。

多分死んでいるんだけど、でももしかしたら帰ってくるかもしれないという期待を持ちながら何年も生きるのがどんだけしんどいか。

区切りをつけることが出来ない限り、否応なく精神的なリソースを割いて、待機電力みたいに余計なエネルギーを持っていかれて、そんな足枷を付けられたまま人生が続いていく苦痛…割り切ることが出来るきっかけを求めてやまない気持ち…というのは、十年単位でこれを経験しないとあんまりピンと来ないのかもしれない。

一応、この辺を分かりやすい言葉で説明してはみたが、お嬢の

母親が南極で行方不明になった=その娘が南極に行くのは捜索目的である

という図式は1ミリもブレんかった。天晴だぜ。

ラストに100万円を南極に置いてきたのも謎だったらしく「今度また来るからいいんだよ」と言ってもやはりピンと来ないようだった。

長いスパンで物事を見るには生きた年数がまだ足りない。

本来、私とお嬢はかなり感性が似ているのだが、生きた年数によって物事への構え方が違ってくるのは仕方がないことで、別に子供と大人のどっちが良いとかではなく、ここは明確に『違う』んだなと。

世代間ギャップではなく、単に生きている年数の差によって生まれる感覚の違いというのは大変興味深くて面白かったのです。

…でも今週末くらいは私を一人にしてくれたら、それはとっても嬉しいなって^^