私でも名前を聞いたことはある池田晶子さんの旦那さんとお子さん。
>被告も生きづらい現代社会の犠牲者だとし、「『お母さんを殺されたけど、僕は成長した』と言えるようになろう。それが青葉さんに勝つ、ということじゃないか」
>長男には事件との縁を切れるよう、裁判で見聞きしたことをすべて説明するつもりだ。「疑問が残れば、長男が事件の記憶にとらわれ、本当の意味で前を向けない」
>「遺族」ではなく、ごく普通の親子に戻りたい―。そんな思いが伝わってきた。
とてもいい記事なのに、これに対してすら「遺族は恨むべき、自分で手を下すべき」とか謎のべき論コメントがつくのね。リプ欄で反対されてるけど。
魂に傷が入るくらい深いダメージを負わされた時。
言い方はアレだけど、むしろ加害者を踏み台にジャンプして高みを目指すっていうのが最良なんだろうけど、何しろ魂に傷が入るレベルのダメージだからそれって凄く難しいよな。死と隣り合わせのギリギリさがある。
刑量に興味はない。裁判で事件に対する疑問を消して、息子さんと事件の縁を切らせたい。子供さんのことをよく考えてるんだな…いいお父さんだ…。
被害者遺族、加害者遺族、癌サバイバー、虐待サバイバー、時代の犠牲者…我々は色んな被害者的な立場を持たされてしまうけど、そこと縁を切ってリスタートする姿は事情を知らない人にも眩しく映って心に火を灯すだろうし、いっそその経験を生きた情報源として他人様に還元したり、最終的にはいいものに持っていきたいよね。社会貢献。
あと世間は何で他人に対してこんな厳しいのかどれだけ考えても
「自分はこんなに我慢してるんだからお前も耐えろ」
っていうネガティブ系ド根性な八つ当たり思想が原因としか思えなくて、一度人類は一週間ぐらいみんなではめをはずしてやりたいこと全部やって好きに生きれたらいいのに…とか実現不可能なことを願ってしまう。
私の場合は敢えて普段やらない行儀の悪いことをする。
すると行儀の悪い人への怒りが失せる。
自分の視点を落とすと見えてくるものがあって面白いんよ。
あんまりおおっぴらにはオススメできないけど。
むかし読んだ児童書に「満員電車で空いた席に荷物置く奴が許せなかったから、自分も真似をしてみたら腹が立たなくなった」っていうのがあって、あれは私の読んだ本の中でも名言上位に入る。
まぁかなり古い児童書だけど…いまこんなん童話に書いたらクレーム来て炎上しそう。
高く広い視点を~とか言うけど、敢えて堕ちることで見えるものもある、ってことをおおっぴらに言いづらい時代になりましたな…。